主の変容 2023年8月6日

 マタイによる福音(マタイ17章1-9節)

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、
高い山に登られた。
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。
一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
という声が雲の中から聞こえた。
弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。
「起きなさい。恐れることはない。」
彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、
イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、
今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

今週のメッセージ
津島愛西教会 早川努神父

年の四旬節の教皇メッセージを覚えてますか?

読んでいない人、覚えていない人はまず、そちらをお読みください。

四旬節第2主日が本日と同じ福音朗読だったので、フランシスコ教皇みずからが解説してくださっていますが、きわめてわかりやすく、正当な解説だと思います。

ですから、内容を覚えている人も、ぜひ、もう一度確認し、味わいましょう。

今年10月からと来年の秋との2度にわたってシノドス総会が開かれますが、シノドスの意味をもよくわかるように伝えてくれているからです。現代世界を救う器としてのカトリック教会を建て直したいという教皇フランシスコの思いを受け止めたいと思います。

2023年四旬節教皇メッセージ(カトリック中央協議会)

https://www.cbcj.catholic.jp/2023/02/24/26555/

 

ちなみに、どうして年に2回も日曜日に同じ福音が朗読されるのか。

今年はたまたま主の変容の祝日(8月6日)が日曜日だったので、年間第18主日に優先して主の変容の祝日となりました。同じ「祝日」といっても、聖人の祝日の場合には年間主日が優先なのですが、「主の祝日」といわれる祝日は、主日として祝うにふさわしく、したがって優先度が高いのです。主の祝日はこのほかに、聖家族、主の洗礼、主の奉献、十字架称賛、ラテラン教会献堂があります。

 

教皇メッセージを味わってくだされば本日の<福音のひびき>はこれでおしまい。

もはやわたしが語ることなどないのですが、それではずるいと非難を受けそうなので、いくつかのポイントをあげて、わたしが黙想したことを分かち合いましょう。

 

わたしたちにとっての「山」とは

 

教皇は四旬節メッセージで、山に登ることを四旬節の禁欲、鍛錬になぞらえていますが、今は四旬節ではありませんので、この話には深入りしないで「山」の意味について考えましょう。

「山」が意味するものは何でしょうか。

山は、聖書の世界では、「神との出会いの場」です。

その代表は、モーセが契約の書を受け取ったシナイ山ですが、ホレブの山、シオンの山、そしてイエスも山の上でみことばを語りました。そして今回はタボル山です

 

では、わたしたちにとって、「山」は何を意味するでしょうか。

わたしたちが日常を離れ、神と出会い、キリストの栄光を目の当たりにする場といえば、それは主日のミサではないでしょうか。

 

それは単に個人的な神体験ではありません。

教皇も言われます。

「三人の弟子を連れていかれます。イエスは、恵みの体験が単独登攀とはならず、分かち合われるよう望んでおられます。わたしたちの信仰生活全体が分かち合われる体験であるのと同じようにです。わたしたちがイエスに従うのは、皆と一緒になのです」

教皇は主の変容の体験の共同体性を指摘します。

山上での出来事の意味するものは、共同体の行為である典礼を意味します。そして、共同体のものである典礼は、教会が共同体であること、信仰生活自体が共同体のものであることと表裏一体なのです。

 

また、ミサは最期の晩さんにおいて、復活の栄光を先取りするものとして制定されました。わたしたちも主日のミサにおいて神の国の完成の先取り体験をします。

3人の弟子たちも、山上で主の復活の栄光を先取りする体験をしました。

 

みことば、そして、ことばの典礼の大切さ

 

その体験はことばの典礼で神のことばにふれていっそう豊かになります。

3人の弟子たちの体験も「律法と預言者を象徴するモーセとエリヤが現れたことでさらに豊かになりました。キリストにおける新しさは、旧約の完成であるとともに約束の実現です」。

 

3人の弟子たちは、モーセとエリヤがイエスと語り合い、共に栄光に輝いている姿を見て、主の復活の栄光を先取りするわけです。

わたしたちも主の復活、神の国の先取りをするためには、聖書を旧約もあわせてよく味わう必要があります。

 

わたしはミサの説教をするとき、しばしば、福音の朗読箇所の前にはどんなことが書かれていたか、この後はどのような展開になっていくかと、朗読箇所がどのような文脈に置かれているかを紹介しています。朗読箇所はあまりに短すぎて、そこだけでは意味がつかめないことが多いからです。ミサの朗読箇所の設定は、みことばを聞く人(ミサの参加者)が、ふだんから聖書によく親しみ、朗読箇所の前後も含めて聖書の内容をよく知っていることを前提としています。

 

教皇フランシスコは言います。

「まずは神のことばにおいてであり、教会はそれを典礼の中でわたしたちに差し出しています。聞こうとしない耳から、こぼれ落ちることがありませんように。いつもミサに参加できるのではないなら、インターネットの助けを借りてでも、日々の朗読箇所に触れましょう」

 

ミサの第2朗読は、福音朗読との関連なく選ばれていますが、第1朗読は、福音朗読と何らかの関連で選ばれています。

ぜひ、ミサの前に、聖書と典礼の脚注を読む、聖書本文でその前後の文脈も合わせて読むなど、第1朗読(旧約聖書)をあじわっておきたいものです。

 

現実世界へ

 

イエスとモーセとエリヤ、この世のものとは思えない神々しい光景を目にしたペトロは、そこに仮小屋を建てましょうとイエスに提案します。

それに答えるかのように、雲に覆われると御父の声を聞きます。

「これに聞け」と。

教皇は、わたしたちの進むべき道しるべとして、「イエスに聞きなさい」ということと、「兄弟姉妹に耳を傾けること」を勧めています。

イエスに聞くことはまず、典礼を通して聖書に耳を傾けることです。

そして、兄弟姉妹に耳を傾けることを、今、シノドスの歩みの中で行っており、それは教会にとって「たえず必要不可欠なこと」なのです。

 

そこで大切なのは、ミサや祈り、黙想がどんなに素晴らしい、魅力的な体験だったとしても、それはあくまでも「退くこと」であり、「それ自体が目的なのではなく、復活に至るために、信仰と希望と愛をもって主の受難と十字架を生きる準備となるものなのです」。

イエスは言います。「起きなさい。恐れることはない」。

「ですから山を下りましょう」と教皇は言います。

「現実と、そこにある日々の労苦、厳しさ、矛盾と向き合うことを恐れて、日常と懸け離れた催しや、うっとりするような体験から成る宗教心に逃げ込んではならない」と。

山の上に仮小屋を作ってその場面を永久に残したいという心、ミサや祈りの甘美さの中にずっと浸っていたいと思う気持ちは、一種の誘惑なのだと思います。

 

イエスが山を下りると、さっそく、悪霊にとりつかれた子供がイエスのところに連れてこられ、イエスは悪霊を追い出し、子供をいやされます。

どうして自分たちには悪霊を追い出せなかったのでしょうと弟子たちがイエスに問うと、イエスは答えます。

「信仰が薄いからだ」。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、・・・あなたがたにできないことは何もない」。

 

山の上で体験した恵みに支えられて現実生活の中に生かすことが弟子たちの課題となります。

わたしたちも、ミサをとおして受けた恵みを現実生活の中に生かすことができなければ、わたしたちもイエスを嘆かせることになってしまうのではないでしょうか。

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(マタイ1717節)

 

「起きなさい」

その言葉をイエスはみずからわたしたちの方へ「近づき」、さらに「手を触れて」言ってくださっています。

わたしたちを愛して、ともに歩んでくださるイエスに信頼して立ち上がり、山から下りて、わたしたちもイエスの愛を、苦しむ人、悲しむ人に届けようではありませんか。

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