聖霊降臨の主日 2023年5月28日

 ヨハネによる福音(ヨハネ20:19-23)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


今週のメッセージ
石川地区 九里彰(くのりあきら)神父

1.「アンネの日記」という映画をご覧になった方も多いことでしょう。私が見たのは古いヴァージョン、白黒の映画で、当時、私は小学校低学年でした。第二次大戦下、ドイツからオランダへ逃げ、ゲシュタポに捕まらないよう、秘密の屋根裏部屋に息を殺して隠れ住むユダヤ人家族の毎日。捕まれば、ユダヤ人であるというだけで、強制収容所に送られ、ガス室で殺されてしまう。当時の彼らの緊張感が、子供の私にもひしひしと伝わって来て、その晩は、恐ろしさのあまり、よく眠れなかったことを覚えています。 

2.ところで、今日の福音にも、それと少し似た情景が展開されています。イエスの死後、弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ」閉じこもっています。おそらく彼らは、自分たちもイエスと同じような目に遭うのではないか、イエスの弟子であるというだけで、虐待され、挙句の果て、十字架につけられてしまうのではないかと考えていたのではないでしょうか。

 けれども、彼らの恐れは、広い意味で、私たち自身の恐れであるとも言えるでしょう。なぜなら、私たちも何らかの恐れに捉えられる時、言い換えれば、自分の存在が社会的にも精神的にも脅かされる時、同じような恐れに捉えられるからです。その時、私たちは心の戸をピタッと閉じ、鍵をかけてしまいます。自分を受け入れ、危害を加えない人にだけにそーっと戸を開き、その他の人は一切排除するのです。

 当然のことながら、ここには本当の平和、心の平安はありません。表面的には、何の衝突、争いはないとしても、人への恐れに支配され、自分の存在を守ろうとする自己防衛の厚い壁がしっかりと築かれているからです。 

3.実にこのような状況の中に、つまり、「戸にはみな鍵がかけてあったのに」、復活したイエスは現れるのです。そしてこう言われるのです。「あなたがたに平和があるように」。

 弟子たちは死んだはずのイエスの姿を見て、また壁をすっと通り抜けてきたかのような、物理的には絶対不可能な出現の仕方を見て、幽霊だと思ったかもしれません。実際、弟子たちは、かつて湖の上を歩いて、自分たちの方に近づいて来られるイエスを見て、幽霊だと思い、髪の毛が逆立つかのような恐れに捕えられたのです。その時も、主は彼らに「恐れるな」と言われましたが、この言葉の究極的な意味は、復活後のこの「あなたがたに平和があるように」にあらわになっていると思われます。 

4.つまり、「弟子たちは主を見て喜んだ」とありますが、その喜びはただ単にイエスと再会できたということにあるのではなく、手と脇腹の傷を見ることによって、自分たちの真ん中に立つイエスが、父なる神によって死から復活させられた神の子キリストであると、初めて心から信じることができたからでしょう。この世がもたらす喜びではなく、信仰の喜びであり、彼らは、その時、あらゆるレヴェルの恐れから基本的に解放され、深い喜びと平安に満たされたのではないでしょうか。 

5.主の復活によってもたらされたこの平和については、すでにいろいろとお気づきのことと思いますが、少なくとも次の二つの点を心に留めておきましょう。

 第一点は、この平和は、弟子たちが共に「一緒にいた」時に、共同体全体に与えられたということです。「あなたに平和があるように」ではなく、「あなたがたに平和があるように」ということです。つまり、イエスの傷を見なければ「決して信じない」と言ったトマスーーーもはやイエスに直接会うことのできないすべての人の心を代弁していると言えますーーも、復活した主に出会うことができたのは、復活から一週間後、皆と一緒にいた時でした。要するに、キリストが私たちにもたらされる平和は、共同体的なもので、単なる個人的な安心立命ではないということです。共に救われ、共に恐れから解放されていくのです。 

6.第二点は、この平和は、スタティックな、消極的なものではなく、人々へ、社会へと積極的に関わっていくダイナミックな創造的なものだということです。実際、主は、こうおっしゃいました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。それは何のためかと言えば、人々に、この世に、まったき平和をもたらすためでしょう。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。その言わんとするところは、私たちの人間的な恐れを、神との関係というもっとも根源的な次元から解放することにあると思われます。たしかに私たちは皆、新聞に載るような大きな罪を犯してはいないかもしれません。しかし、どんな些細なことであろうと罪を犯すならば、私たちの良心は気づいており、神との関係は曇らされてしまうのです。その罪によって、私たちの心は、ひそかな恐れによって支配されるようになり、不自由なものとなってしまうことでしょう。私たちの罪が使徒たちを通して神から赦されることによって、私たちの心にまったき平和と自由がおとずれるのです。 

7.いずれにせよ、今日の復活体験を契機に、弟子たちの態度は百八十度変わります。復活前は、人を恐れ、死を恐れ、家に閉じこもっていた彼らが、人も死をも恐れず、大胆に福音を宣べ伝え始めるからです。

 今日も、「あなたがたに平和があるように」と、主は私たち一人ひとりに、おっしゃっておられます。主の復活を信じる私たちが、主と共に、主の内に、戦争や争いの絶えないこの世に、主の平和を人々に伝えていくことができますように。また憎しみと不和、争いと分裂のあるところに、私たちが生きているさまざまな場所に、真の平和と喜びをもたらしていくことができますように。「聖霊来てください!」。聖霊の息吹きで私たち一人ひとりが満たされていきますように、共に祈りましょう。

このブログの人気の投稿

主の昇天 2023年5月21日

年間第12主日 2023年6月25日