投稿

8月, 2023の投稿を表示しています

年間第22主日 2023年9月3日

  マタイによる福音(マタイ16章21-27節) 〔そのとき、〕イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」 今週のメッセージ 八熊教会 平田 豊彦 神父 前週の福音でフィリッポ・カイザリア地方をイエスは弟子達を伴って旅をした折に、「人々は人の子のことを何者だと言っているか?」と問いかけられました。この問いかけに対して、弟子たちは人々が洗礼者ヨハネだ、とかエレミヤだ、あるいは預言者の一人だとか様々な反応をしていますとイエスに告げました。すると、では「あなた方は私を何者と思っているか?」と、踏み込んで問いかけられます。それにペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰を告白しました。 それを受けて、今日、ご自分の死と復活について予告されます。この予告の言葉のもつ意味と重みについて考えさせています。  この予告の言葉は共観福音書に共通でそれぞれで3回出てきています。そのことからこのテーマはイエスがキリストであることの本質の一つであることを示しているとも言えます。 ※つまり、キリストは死と復活を通らなければその使命である救いの実現を成就することは出来ない。  ※更に、その救いは限られた人々(例えばユダヤ人だけ)のものではなく、すべての人々に及ぶ救いの約束であること。 従って、福音書はそのことを三度にわたって強調しているのです。しかし、今日の福音の箇所では弟子達は十分にその意味を理解して

年間第21主日 2023年8月27日

  マタイによる福音(マタイ16章13-20節) イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 今週のメッセージ 東海・長浦教会  ロナウド・アウヴェス・オリヴェイラ 神父 今週の日曜日の福音は キリストの弟子としての二つの大切なことを示します :  まず、 神のキリストであり御子である イエスへの信仰宣言です、それから信仰の共同体である教会です。また、教会の指導を任されたペトロを通して、私たちに信仰教育を定着しています。 主イエスは 弟子たちに自分の身元についての理解を確認しようとされました。この最初の質問を通して弟子たちは、人々がイエスについてどう思っているかを知っていたことを示しました。今日同じように、人々はイエスについてさまざまな意見を持っています。たとえば、インターネットで調べると、 イエスに関する文章やビデオがたくさんがあります。ただし、重要なのはこれではありません。福音によるイエスが本当に関心を持っているのは 使徒たち自身の理解であり、それは世間の意見とは異なるに違いありません。そして、イエスの二番目の質問に答えて、ペトロは弟子たちがイエスの使命を神の子メシアとして理解していることを明らかにします。そのため、イエスはペトロを教会の信仰の代弁者として承認して、彼に鍵の権限を与えました。 ですから、マタイは 福音の中で、イエスの教会が定着

年間第20主日 2023年8月20日

  マタイによる福音(マタイ15章21-28節) 〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 今週のメッセージ 聖心布教会本部  ベルン 神父 今日の福音書、マタイ15章21節から28節では、イエスが弟子たちを連れて、ティルスとシドンの地方、すなわち異邦人の地に行かれたことが述べられています。そこで、娘が悪霊に苦しめられているカナンの女性が近づいてきて、娘の病を癒してほしいと叫んで訴えますが、イエスは最初無関心な態度を取ります。 それでも、叫びながらついて来るので、イエスは「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えます。この言葉は、ご自分のミッション(使命、宣教)がイスラエルの民を優先的に考えていることを示しているように思われます。しかし、異邦人のことが全く考えられていないわけではありません。そのことは、この後に続くカナンの女性との対話の中で明らかになっていきます。 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」このイエスの言葉は厳しく差別的な発言に聞こえるかも知れません。しかし、カナンの女性も黙っておらず、必死に食い下がり、「主よ」「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑をいただきます」と答えます。その意味は、神の教えや掟を知らない異邦人であっても、神の国の食卓でわずかでも神の救いのおすそ分けにあずかることができるのではないでしょうか、ということになります。イエスはこの女性の信頼に

年間第19主日 2023年8月13日

  マタイによる福音(マタイ14章22-33節) 「その時」イエス様は弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。 今週のメッセージ 恵方町教会 エディ 神父 古池や 蛙飛び込む 水の音。 この俳句をどんな気持ちで一読しますか。自分はこの俳句を見る度にある黙想の家近くにある池を思い出します。そこに魚はもちろん蛙や水鳥を見る事が出きます。池岸に休んでいる蛙は私達の足音を聞くとすぐさま涼しげな池に飛び込みます。    蛙の気持ちになって涼しいプールに飛び込みますか  ?   夏に入ると川、海と水難事故が多発しますが、気をつけましょう。      さて、イエスは人間を御父に立ち帰らせるために荒れ野や山、湖を渡る経験をさせます。湖で弟子たちと小さい舟旅をしながら、逆風で波に恐れ悩む弟子たちが御父に信頼を置くよう経験させられたのです。    湖上におけるイエスと弟子たちのやりとりは、ともすれば言葉遊びのようにも感じられますが、微笑ましくも感じられます。「ファリサイ派のののパン種の話に勘違い弟子「 8.13-17 」、また高波を恐れてイエス様を怒鳴る弟子の事「 16.512 」を思い出すと」このようなやりとりをあなたはイエスとなさったことがあるで