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10月, 2023の投稿を表示しています

年間第31主日 2023年11月5日

  マタイによる福音(マタイ23章1-12節) 〔そのとき、〕イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 今週のメッセージ 布池教会  岩崎一二三 神父 これは1990年代にイタリアに留学し、数年前に亡くなられた Y 神父様から聞いたお話です。 「私はある時、トリエントに行きました。南アルプスの裾野の谷間にある小さな村が点在しています。周囲はリンゴ畑で美しい土地でした。  ここは私を案内してくれたイタリア人司祭の出身地でした。村の教会堂の正面扉の左右には、マリア様とヨセフ様の壁画があり、周囲にも大勢の人物が描かれていました。その壁画を見ているうちに、人物の中で自分が見たことのある顔があるのに気づきました。「どこかで見た顔」と思いながら、隣で立っている神父さんに「どこかでお会いした人・・・」と言うと、彼が「それは私です。」と答えました。  この壁画は完成するまで、信者の目には隠されていました。除幕式の日、カバーが取り除かれると、村人たちは、そこに自分が描かれているのを知って驚きました。「これはあなた、あれは私。」と。

年間第30主日 2023年10月29日

  マタイによる福音(マタイ22章34-40節) 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 今週のメッセージ 神言修道会  ファビオ・セラン 助祭 神の民として、愛は最もおおいなるものです。なぜなら、愛は神から出たものであり、すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っているからです。つまり、神は私たちを創造する時に、神はまず、私たちを愛してくださったのです。だから、私たちが、どれほど頻繁に神に願い求めても、また、どれほど大きな問題に直面しても人間に対する神の愛と恵みは決して終わることがないと、私たちは信じています。言い換えれば、神の民には、神の愛と神の力を越える問題や悩みなどはありません。一方、私たちの側は、日常生活の中で、私たちを最初に愛してくださった神をどれほど愛しているでしょうか?私たちは、隣人を愛することを通して、愛の源である神をどれほど愛しているでしょうか? マタイ福音書に書かれている『神を愛し隣人を愛し』の掟は、神が私たちに、他者への愛を通して神を愛する方法を教えてくださっていることも理解できます。神を私たちは、実際に見ることができず、触れることもできず、また、この為、存在を確信できないことがあるかもしれません。一方、私たちの隣人は実際に見え、また、互いに会話できたり、触れることも出来るので、私たちは隣人に対して 、自分の 愛をより簡単に表すことができます。私たちの他者への愛は、神への私たちの愛の真の表明であり表現です。したがって、神を愛することと他者を愛することは、別々のこととして考えることはできません。他者を愛することは、神への愛を体現し実現することです。このことは、聖書に次のように書かれています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ 25:40 )。この御言葉には、

年間第29主日 2023年10月22日

  マタイによる福音(マタイ22章15-21節) 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 今週のメッセージ 膳棚教会  寺尾總一郎神父 神のことと人のことは切り離せない わたしたちは、本当に分からないから、知りたいから、確認するため、あるいは相手の揚げ足をとるため、恥をかかせるため、相手を訴える口実を作るためなど、いろいろなことを人に尋ねながら人生を歩んでいます。   今日、朗読されたマタイの福音書のイエスへの質問は、元来は不仲であったパリサイ派とヘロデ派が手を組んでイエス様を陥れようとたくらんだ質問です。今や、両派は、そんな不仲は棚上げして、イエス様自身を共通の敵として罠にかけた質問をしました。それで、イエス様が時々使われる手法、つまり、イエス様が質問者に質問されます。デナリオン銀貨を持ってこさせ、「そこに刻まれている肖像はだれかね」と尋ね、質問者が「皇帝のものです」と答えるのを待って、それなら「ローマ皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられたというのです。   しかし、これは本当に上手に質問をかわされましたが、実際にはどうすればよいのでしょうか。ミサ中はミサだけに、聖堂を一歩出たらミサとは関係ない世俗の世間話に切り換えるということでしょうか。   よいクリスチャン、熱心な信者とはどういう信者のことでしょうか。クリスチャンでない方からキリスト教の大切な戒律はなんですかと尋ねられたら、「全身全霊をこめて神を愛し

年間第28主日 2023年10月15日

  マタイによる福音(マタイ22章1-14節) 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕イエスは、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 ≪王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」≫ 今週のメッセージ 神言会ハウス 荒田 啓示 神父 先週の「ぶどう園と農夫」の例え話に続き、今日の福音箇所でもイエスは「婚宴の例え」を用いて、天の国について、そしてそこに招かれる人について説明しています。この箇所では、最後の一文「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉が、非常に大きな意味を持っています。  今日の例え話に出てくる王は神であり、婚宴を行う王子はイエスのことを指していると考えると、この話は、神が独り子イエスのための婚宴、つまりイエスを迎える日を用意し、そこに人々を招待したものであると想像できます。あらかじめ王がこの婚宴に「招いておいた人々」は、誰一人としてその招きに応じず、みな自分のことを優先しました。この人々は「ふさわしくなかった」と明言されています。その後、善人も悪人も、大通りにいた人々は全てこの婚宴に招かれまし

年間第27主日 2023年10月8日

  マタイによる福音(マタイ21章33-43節) 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 今週のメッセージ 港教会  山野 聖嗣  神父 みなさん、こんにちは。今から15年前の2008年11月24日に、長崎県長崎市のビックNという野球場で188人の日本の殉教者たちが福者にあげられました。普通の列福式は、ローマ・カトリック教会の教皇様がいらっしゃるローマのバチカンで行われます。しかし、特別な許可が下りて、188人の殉教者たちの列副式が日本で行われました。日本の当時の司教様たちの話し合いで、長崎が式場としては相応しいと決まり、長崎で福者たちの列福式が行われました。そして、7月1日が正式に188人福者の殉教者たちのお祝い日と決まりました。毎年、日本の教会でお祈りが捧げられています。15年前に私ども聖アウグスチノ修道会でも、この列福式に向けて、9月と12月の2回に分けて、巡礼を企画し、実行しました。東京・名古屋・福岡・長崎で働く日本の聖アウグスチ