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四旬節第三主日 2024年3月3日

  マルコ による福音(ヨハネ2章13-25節) ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。  イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。 今週のメッセージ 刈谷教会 ホー・ショウフェン 神父 四旬節第3主日に入りました。四旬節は、内面的かつ外面的にわたしたちが自分の信仰生活や生き方を改めて見直して、悔い改めて、改心して神様の前によりふさわしく生きるものとなることをわたしたちに求めていますし、それも神様がわたしたちに対する大きな望みであります。それによって、主キリストの復活の恵みにもよりふさわしく預かることができるでしょう。 回心、悔い改め、償い、愛の業の実践、断食などなどの表現や用語がこの四旬節の間におのずと頭の中に思い浮かびます。その中でとりわけ悔い改めのことに関して、申し上げたいと思います。私たちの信仰生活の経験に基づいて、まず悔い改めとは、今まで行った悪いこと、犯した罪や過ち、神様から離れていた自分の生き方や生活ぶりを反省し、それ...

四旬節第二主日 2024年2月25日

  マルコ による福音(マルコ9章2-10節) 〔そのとき、〕 イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 今週のメッセージ 押切・小牧・守山教会  平田 政信 神父 四旬節第二週目を迎えました。福音朗読箇所は「イエス様のご変容」場面です。灰の水曜日から後「復活の主日」まで6週間過ごして行きます。 フランシスコ会訳「新約聖書」を開くと「小見出しの目次」があります。御復活の主日までの6回の主日福音朗読箇所の小見出しは1.荒れ野における試み」と「福音宣教の発端」2.「イエスの変容」3.「神殿から商人を追い出す」4.「ニコデモとの対話」の一部「十字架の意味」5.「一粒の麦―イエスの死の意味」6.ピラトの尋問」と「イエスかバラバか」とあります。 「四旬」とは40日間の事。この期間イエス様の歩みに寄り添い思いを馳せ信仰を深める日々。そして復活の聖なる徹夜祭で旧約聖書を通して、イスラエルの民の歩んだ歴史を思い起こし、洗礼志願者は洗礼を受け、信者は洗礼の約束更新を行います。その期間四旬節第二主日を迎えました。御復活を迎える準備をしています。聖なる徹夜祭で信仰宣言を更新しますが、6回の主日の福音はその準備にふさわしい箇所を朗読しているようです。 弟子たちは今日の朗読箇所では「恐怖におそわれていた」「彼らは(イエス様)の言葉を心に留めていた」と...

四旬節第一主日 2024年2月18日

  マルコ による福音(マタイ2章1-12節) 〔そのとき、〕"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 今週のメッセージ 安城教会 ノヴァク・ボグスワフ・ジグムント  神父 「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」マコ 1,14-15   イエス・キリストと洗礼者ヨハネが、全く同じ言葉をもってそれぞれの活動を始めました。けれども、同じ言葉を語っても、二人とも、全く異なることを宣べ伝えようとしたのです。 まず、洗礼者ヨハネにとって、「神の国」というのは、神の裁きのことで、「神の国が近づいた」ということは、神の裁きの日が迫ってきたという意味でした。洗礼者ヨハネによれば、神は非常に厳しい審判を行いますので、苦しい罰を避けるために、神から裁きを受ける前に悔い改めて、良い実を結ばなければならないということでした。ヨハネはこの言葉によって人の心に恐れをもたらし、回心をさせようとしたわけです。 イエスにとって、「神の国」とは、人間の神との愛の交わりのことです。「神の国が近づいた」とは、ご自分の到来とともに、神との愛の交わりの可能性が近づいて、ご自分が成し遂げる贖いのわざの結果として、この交わりがすべての人々にとって可能になるという意味でした。こうして、イエスは洗礼者ヨハネと違って恐れをもたらすことによってではなく、良い知らせを伝え、人間に希望を与えることによって回心へと呼びかけたわけです。 イエス・キリストにおいて神ご自身が、罪を犯したことによって神から離れた人々に近づき、イエス・キリストの愛と命による最高のいけにえによって私たちの罪をあがなって、全人類と和解してくださったがゆえに、人間の心の最も深い渇望が満たされることが実際に可能になったのです。ですから、神の国に入る可能性は報いではなく、神の無償の賜物なのです。しかし、この賜物を受け入れるために、私たちは神のみ旨に適わない生き方をやめて、イエス・キリストを自分の人...

年間第6主日 2024年2月11日

  マルコによる福音1・40-45 〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 今週のメッセージ 光山 相泰 (名古屋教区)終身助祭  朝起きてニュースをラジオで聞いていると必ずスポーツニュースがあります。そこでは誰が一番だとかタイム更新だとか競い合ったニュースが流れます。人間は競い合いが何処までも好きな動物なのだろうかと考えてしまいますが、しかしそういう競い合いがあった、あるからこそ文化が発展してきたという点もありますが、反面それが大きくなると相手を蹴落とす、相手をないがしろにする事にもつながります。人間は平和を求めているには、いるのですがひとたび権力を握ると、自分たちだけの安楽、利益を求めるあまり争いごとが起きてしまいますし、ひいては相手を抹殺してしまうという事にもなりかねません。  聖書の時代でも現代でも、一人一人の人間は、幸せに暮らしたいと思うのは金持ちであれ貧乏人であれ、平和に暮らしたい、健康に暮らしたいと思うのは同じであります。特に病気の人や社会から阻害されている人は、なおさらその思いは強いと思います。聖書の時代では、病気の人、特に皮膚病の人は、社会から隔離されて生きて行かねばなりませんでした。その皮膚病は伝染しないものであっても、現代のように研究解明がされていませんので、伝染病といっしょくたにされたのでした。そして現代の先進国のように隔離施設もありませんので、もっと疎外感を感じていきてゆかねばなりませんでした。例えば、自分に近づく人には、大声で「私は皮膚病を持っています」と云わなければなりませんでした。道を...

年間第5主日 2024年2月4日

  マルコによる福音1・29-39   〔そのとき、イエスは会堂を出て、〕シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。 今週のメッセージ 九里(くのり)  彰 (カルメル修道会) 神父 1.今日の福音の前半では、人々をいやすキリストの姿が描かれています。熱を出して寝ていたシモン・ペトロのしゅうとめの手を取って起こすと、摩訶不思議、熱はすぐに去ります。そして「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし」、「多くの悪霊を追い出し」ます。 それは単に体や精神の病をいやすということだけではなく、人間の心そのものをいやしていると言えるのではないでしょうか。   2.実に、私たちの心は、第一朗読のヨブのようです。「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない。・・・私の一生は 機( はた) の 梭( ひ) よりも早く、望みもないままに過ぎ去る。私の命は風にすぎない」。  人は皆、心のどこかで空しさを感じているのではないでしょうか。心にぽっかりと穴があいていると言ってもいいかもしれません。穴があいた状態は、病気の状態です。この病気をいやすため、すなわち、空虚な穴を満たすため、人間は東奔西走しているのです。パスカルの言うルサンティマンではありませんが、さまざまなことに没頭し、気を紛らしているのです。 しかし、この穴を満たすもの、...

年間第4主日 2024年1月28日

  マルコによる福音書1・21-28 イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 今週のメッセージ 岐阜教会 ソンポタン・カロル・ヨハネス神父 イエスは、安息日に〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 「福音のひびき」 今日の福音書を読むときに、「主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう」というミサの式文を思い出しました。ミサをささげるときに、わたしは「主の教えを守り」と皆の前でよく言います。そのときにも、心の中に、キリスト信者としての使命が響いています。 特に、聖心布教会の一人として、「神は愛です」というイエス様からの教えを生涯忘れてはいけないし、誰でもの心にそれを届けるミッションをいつも覚えています。自分のよさと足りなさを意識しながら、自分自身と戦いながら、「神は愛ですよ」というイエス様からの覚えやすい教えを、誰にでも届けようと思っています。 今日の福音朗読には、「教え」という単語が四回まで出ています。イエス様が会...

年間第3主日 2024年1月21日

マルコによる福音書1・14-20 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 今週のメッセージ 押切・小牧・守山教会 鄭 有喆 神父 教皇フランシスコは、 2019 年 9 月 30 日の教皇書簡「アペルイト・イッリス APERUIT ILLIS 」によって、年間第 3 主日を「 神のことばの主日 」とすると発表され、翌 2020 年 1 月から「 神のことばの主日 」が始まりました。今年は 5 回目ということになります。   ご存じのように、 2020 年の初めから、わたしたちは新型コロナウイルス感染症を経験しました。コロナ禍の中で、ごミサは中断され、秘跡に近づくことが中々できませんでした。皆が集まって聖書を朗読したり、詩編を歌ったりすることはできませんでした。さいわい、パソコンやスマートフォンを通して聖書を読んだり聞いたりすることはできたのです。その経験の中で 「神のことば」 に癒され、 「神のことば」 を見つめ直す良い機会をいただいたのではないかと思います。そう振り返りながら、今日の福音を分かち合ってみたいと思います。   アメリカの映画俳優にシャーリー・マクレーンという方がおられます。昔の映画ですが、「八十日間世界一周」、「アパートの鍵、貸します」などで主演をされた方です。そんな彼女がテレビ番組でインタビューを受けたのですが、その内容がある本に載っておりました。さすが、アメリカというキリスト教国ならではのインタビューでしたが、「『天国に行った時、あなたは神様にお会いするでしょう。その時、神様から何を言ってもらいたいのですか?』という問いに対して、彼女は『一つの言葉だけで十分です。あなたは今までずうっと天国にい...

年間第2主日 2024年1月14日

  ヨハネによる福音書1・35-42 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 今週のメッセージ カトリック敦賀教会  アワアリ アルン ジョン クマル 神父 本日のミサの第一朗読はサムエル記上の第 3 章からのものですが、その中で神が少年サムエルに対して何度となく 呼びかけるというドラマチックな情景が描かれています。私た ち にも神はこのように繰り返し呼びかけておられるのではない でしょうか。私たちは騒がしい 世の中に生活していますが、それでもこの神の呼びかけには耳を傾け聞くことができるはずです。私たちの生活の中において神は天の父として日ごとに私たちに話しかけられ、神に仕えるよう呼びかけられておられるのです。私たちもサムエルのように神の呼びかけに対して、「どうぞお話 しください。僕は聞いております。」と常に答えるこ とができるよう整えている必要があるのです。 今日の福音朗読ではヨハネに...

主の公現 2024年1月7日

  マルコ による福音(マタイ2章1-12節) イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 今週のメッセージ 岡崎教会  モルク・フランシスクス・ アシジ神父 預言者イザヤは主の公現の主日に当たって「起きよ、光を放て」と述べ伝えました。イエス。キリストは御言葉が人となられわたしたちの間に住まわれ、また、光の子としてこの世にお生まれになりました。“言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった”「ヨハネ1:4-5」洗礼を受けた私たちは光である主イエスを証しすることによって主イエスをまだ知らないが主イエスを信じるように招かれています。なぜなら、主イエスは「あなたがたは世の光である」と言われたのです。イエス。キリストは光として人々を救うためにこの世にお生まれになりました。洗礼を受けたキリスト者は人間を照らす光であるイエスを良い知らせとして人々に述べ伝える...

神の母聖マリア 2024年1月1日

  ルカによる福音書2・16-21 急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。 今週のメッセージ 春日井教会 北向  修一神父 マリア様を私たちカトリック信者は私たちのお母さんと呼び、世代を超えて敬愛しています。そんなマリア様ですが、私たち以外の多くの人たちともつながりがあります。最近のことで言えば、教会に来た人たちはまず教会前にあるマリア像を見て頭を下げたり、お祈りする人が沢山います。この前は教会を消防点検に来た方が、このマリア様をとても気に入っているとお話になりました。また写真を撮っても良いかと尋ねられた方もいらっしゃいました。幼稚園の園児たちはいつも通り過ぎるときに見上げているのは日常のことです。私たちのマリア様はそんなに高級なものではないはずですが、マリア様そのものが皆好きなのでしょう。マリア様の存在はおそらく教会外でもいい影響を与えているであろうことを、私たちは知っています。母なるマリアは、私たちに安心感を与え、平和の気持ちを思い出させて下さいます。世の中の人びとが、いかに安心や平和を求めているかうかがい知ることが出来ます。    福音では天使によって告げられた喜びの知らせをうけた羊飼いたちが幼子を捜し当て、天使が語ったことを告げ、マリアはそのことを心に納め思い巡らしていたと言います。この時、マリア様は何を思っておられたのでしょうか。興味は尽きませんが、少なくとも自分に与えられた我が子について時間をかけてお思い下さったことは確かです。    私たちはキリストの購いによって神の子とならせて頂きました。購い主の母であるマリア様は神の子である私たち一人一人に思いを巡らせ、想いを心に納めて下さいます。神の母聖マリアの祭日に当たり、神の子である私たちが同じくマリア様を慕うこどもたちと...

待降節第4主日 2023年12月24日

ルカ1・26-38   〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 今週のメッセージ 福井教会 ポノンバン・フレデリック・フリッツ 神父 十二月になるとわたしはいつも子供のころのことを思い出します。その時、待降節は喜びであふれるタイム、 瞬間 ( しゅんかん ) になりました。家族全員で仕事を分かち合います。子供たちは掃除すること、お父さんは馬小屋を作り、お母 さんはいろいろなおいしいものを作ることになっていました。心の準備をしながら、自分自身の仕事を終わりまで喜びの内にやりました。すでにクリスマスの前からわたしたちはその降誕祭の喜びを味わうことができました。ですから、神様が喜びをもって来られることを知るだけではなく、それを感じて大切な経験になりました。  今日の福音の中で主の天使が聖ヨセフの夢に現れて二つの神様の命令を伝えました。 「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」 と 「マリアが産む子をイエスと名付けなさい」 。聖ヨセフはその二つの命令通りにしました。マリアを迎え入れて、マリアが 産 ( う ) む子を...

主の降誕 2023年12月25日

  ルカ による福音(ルカ2章1-14節) そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 今週のメッセージ 高蔵寺教会 椎尾 匡文 神父 主の降誕の夜半のミサには、毎年、ルカ福音書の降誕の箇所が読まれます。ルカはイエスの誕生を、第一朗読で読まれたイザヤの預言の成就として描いています。 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。」(イザヤ9:1-2)  野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしました( v.8-9 )。そして、天使は言いますー「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」( v.10 )と。  救い主が生まれたという大きな喜びの知らせ(福音)は、まず最初に、救い主の生まれた場所から離れたところにいた羊飼いたちに告げられました。羊飼いという職業は、当時のユダヤにおいては社会的に差別されていた職業の一つでした。羊飼いは聖書的な...

待降節第3主日 2023年12月17日

  ヨハネによる福音書1・6-8,19-28   神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。 今週のメッセージ ロゴスセンター 暮林 響神父 待降節第三主日には、入祭唱(フィリピ 4 章 4 - 5 節)でも、集会祈願でも、第一朗読(イザヤ 61 章 1 - 11 )、答唱詩編(典礼聖歌 179 番)、第二朗読( I テサロニケ 5 章 16 - 24 )でも、繰り返し力強く響いている言葉があります。それは「喜び」です。  そもそも、この待降節第三主日の典礼の第一声が入祭唱の「 Gaudete in Domino Semper (喜べ、主において、いつも)」という音から始まるため、この日が「 Gaudete の主日」つまり、「喜びの主日」と言われていることは、割と多くの信者さんに周知されるようになってきたと思われます(まぁ、個人的には「喜べ!の主日」...

待降節第2主日 2023年12月10日

  マルコによる福音( マルコ1 章1-8節) 神の子イエス・キリストの福音の初め。 預言者イザヤの書にこう書いてある。 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、 あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。』」 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 今週のメッセージ 富山地区 小川 満  神父 いよいよ、教会の新しい典礼歴が始まりました。 2024 年度の典礼歴は、 2023 年度の待降節から始まります。最近、とくに感ずるのですが、この典礼歴は本当によく考えられており、よくできていると思います。一年を通じて三位一体の創造主である御父がご計画なさり、御子キリストが私たちのために見えるものになさり、今も、聖霊が教会を通して実現なされている、私たちの救いのご計画が、実によく顕われていると感じられるからです。毎年待降節の主日の福音には、やがてお生まれになるキリストの姿は顕われていませんが、先駆者である洗礼者ヨハネが主の道を整えるために準備している姿や、その両親ザカリアとエリザベト、神の子を宿されるマリアへのお告げなどが提示され、神の愛の結晶である救い主の現われが近いことなどなどが知らされます。 典礼歴 B 年の主日の福音はマルコを中心に進められますが、マルコの福音は短く、簡潔なので、ときには他の福音箇所を挿入しています。ですから 今年の待降節第一主日は、 2023 年度の、愛の王様としてのキリストの現われである最後の審判に続いた『常に準備していなさい』との注意喚起に続いてのたとえ話が紹介されています。この救いの歴史を具現化している教会の典礼歴を生きる私たちキリスト者は、常に神のみ旨を生きなければならないのだと思います。 2024 年も常に三位一体の神とともに活きましょう。

待降節第1主日 2023年12月3日

  マルコによる福音( マルコ13 章33-37節) 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」 今週のメッセージ 一宮教会 太田 実  神父 教会のカレンダーは待降節第一主日から始まります。待降節はまさに来たろうとする方を待つ季節です。教会の聖書朗読配分はあらかじめ決められていますが、神のみ言葉は、今、ここに生きるわたしたちに語られているのですから、そのつど、その響き方は異なります。    ロシアによるウクライナ侵攻、聖地における戦闘の応酬の中で、多くの子どもたちが殺されたり、飢えや渇きに苦しむ様子が毎日報道されています。    第一朗読は、「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたのみ名です。」という言葉で始まります。「わたしたち」はアブラハムを信仰の父とするユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒を指していると思います。 もし、今のイスラエル政府が、イエス時代のイスラエル国をパレスチナに樹立することを目指しているとすれば、聖地は終わりのない戦いの場と化すのではないかと危惧されます。    マルコ福音書 13 章は「小黙示録」と言われます。  エルサレム神殿の崩壊を予告した後、イエスは弟子たちの求めに応じて、終末のしるしについて語ります。   「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」というイエスの言葉は、今の聖地のありさまを映し出しているようにも思います。 「それらの日には、このような苦難の後、...

王であるキリスト 2023年11月26日

  マタイによる福音(マタイ25章31-46節)  〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』  そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」 今週のメッセージ 日比野教会 志村  武 神父 王であるキリスト、神の支配、神の国が完成する時。私たちは王であるキリストのお祝い、神の国の完成に向けて、今の信仰の歩みを歩んでいます。それは、完全には見えないながらも、神の働きを日々の出来事を通し...

年間第33主日 2023年11月19日

 マタイによる福音(マタイ25章14-30節) 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人にはニタラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、ニタラントン預かった者も、ほかにニタラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、ニタラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、ニタラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかにニタラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。れでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 今週のメッセージ 石川地区 片岡...

年間第32主日 2023年11月12日

  マタイによる福音(マタイ25章1-13節) 〔そのとき、イエスは言われた。〕 「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 今週のメッセージ 東海・長浦 教会  ファルディマール・バカリサ・ファミニアラガオ  神父 初期の教会活動の中では、キリスト者たちは、生きている間にイエスの再臨がくると信じていましたが、福音書がまとめられる頃には、イエスの再臨はすぐには起こらないだろうと信じるようになりました。それはつまり、いつ世の終わりがくるのかとばかり考えるとき、準備することについての忠告をおろそかにしてよいということになるのでしょうか。しかし、確実なことは、私たちの地上での終わりの時はかならず来るということです。考えないようにすることもありますが、終わりはいつ、どこででも起こることを、私たちはよく知っています。 今日の福音は、この現実と私たちを向き合わせてくれます。ここで私たちに問いかけます、「準備はできていますか」。そして、ふたつめの問いを考えさせます、「どうすれば準備ができますか」。そう問いかけられた今、イエスの上に私たちの道をおきましょう、私たちの真理にイエスを、私たちの命をイエスにお...

年間第31主日 2023年11月5日

  マタイによる福音(マタイ23章1-12節) 〔そのとき、〕イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 今週のメッセージ 布池教会  岩崎一二三 神父 これは1990年代にイタリアに留学し、数年前に亡くなられた Y 神父様から聞いたお話です。 「私はある時、トリエントに行きました。南アルプスの裾野の谷間にある小さな村が点在しています。周囲はリンゴ畑で美しい土地でした。  ここは私を案内してくれたイタリア人司祭の出身地でした。村の教会堂の正面扉の左右には、マリア様とヨセフ様の壁画があり、周囲にも大勢の人物が描かれていました。その壁画を見ているうちに、人物の中で自分が見たことのある顔があるのに気づきました。「どこかで見た顔」と思いながら、隣で立っている神父さんに「どこかでお会いした人・・・」と言うと、彼が「それは私です。」と答えました。  この壁画は完成するまで、信者の目には隠されていました。除幕式の日、カバーが取り除かれると、村人たちは、そこに自分が描かれているのを知って驚きました。「これはあなた、あれは私。」と。

年間第30主日 2023年10月29日

  マタイによる福音(マタイ22章34-40節) 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 今週のメッセージ 神言修道会  ファビオ・セラン 助祭 神の民として、愛は最もおおいなるものです。なぜなら、愛は神から出たものであり、すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っているからです。つまり、神は私たちを創造する時に、神はまず、私たちを愛してくださったのです。だから、私たちが、どれほど頻繁に神に願い求めても、また、どれほど大きな問題に直面しても人間に対する神の愛と恵みは決して終わることがないと、私たちは信じています。言い換えれば、神の民には、神の愛と神の力を越える問題や悩みなどはありません。一方、私たちの側は、日常生活の中で、私たちを最初に愛してくださった神をどれほど愛しているでしょうか?私たちは、隣人を愛することを通して、愛の源である神をどれほど愛しているでしょうか? マタイ福音書に書かれている『神を愛し隣人を愛し』の掟は、神が私たちに、他者への愛を通して神を愛する方法を教えてくださっていることも理解できます。神を私たちは、実際に見ることができず、触れることもできず、また、この為、存在を確信できないことがあるかもしれません。一方、私たちの隣人は実際に見え、また、互いに会話できたり、触れることも出来るので、私たちは隣人に対して 、自分の 愛をより簡単に表すことができます。私たちの他者への愛は、神への私たちの愛の真の表明であり表現です。したがって、神を愛することと他者を愛することは、別々のこととして考えることはできません。他者を愛することは、神への愛を体現し実現することです。このことは、聖書に次のように書かれています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ 25:40 )。この御言...