年間第6主日 2024年2月11日

 マルコによる福音1・40-45

〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

今週のメッセージ

光山 相泰 (名古屋教区)終身助祭

 朝起きてニュースをラジオで聞いていると必ずスポーツニュースがあります。そこでは誰が一番だとかタイム更新だとか競い合ったニュースが流れます。人間は競い合いが何処までも好きな動物なのだろうかと考えてしまいますが、しかしそういう競い合いがあった、あるからこそ文化が発展してきたという点もありますが、反面それが大きくなると相手を蹴落とす、相手をないがしろにする事にもつながります。人間は平和を求めているには、いるのですがひとたび権力を握ると、自分たちだけの安楽、利益を求めるあまり争いごとが起きてしまいますし、ひいては相手を抹殺してしまうという事にもなりかねません。

 聖書の時代でも現代でも、一人一人の人間は、幸せに暮らしたいと思うのは金持ちであれ貧乏人であれ、平和に暮らしたい、健康に暮らしたいと思うのは同じであります。特に病気の人や社会から阻害されている人は、なおさらその思いは強いと思います。聖書の時代では、病気の人、特に皮膚病の人は、社会から隔離されて生きて行かねばなりませんでした。その皮膚病は伝染しないものであっても、現代のように研究解明がされていませんので、伝染病といっしょくたにされたのでした。そして現代の先進国のように隔離施設もありませんので、もっと疎外感を感じていきてゆかねばなりませんでした。例えば、自分に近づく人には、大声で「私は皮膚病を持っています」と云わなければなりませんでした。道を通るときもです。病気そのものよりも精神的な疎外感の方が大きかったと思います。もしその皮膚病が治ったと思ったら、あの時代、神殿を司る祭司に見せて、お墨付きをもらい社会復帰、いわゆる普通の人のように行動できる訳であります。ですから清くなった人はまず祭司のところに出頭して、それなりの捧げもの、いわば税金のようなものですが、それをまずしなければなりませんでした。 

 先週に続きイエスは病人を癒し、悪霊を追い出す行為をしたのですが、悪霊と云うのは現代で言う精神的な病の一つであろうと考えられております。

 イエスの悪霊を追い出した行為。この事は、精神的な病から人間嫌いになった人、あるいは尋常でない行動を取る人、悪魔つきと言われた人や重い皮膚病の人は社会から爪弾きにされ、自らをそうした状態にせざるを得ない人、このような人を普通の人に戻してあげる。いわば共同体に社会復帰させたという意味がありました。

 古代の人達は、天候の異変や地震、人間の知恵や力ではどうにもならない亊は、神様の業と考えていたので人間にとって悪い事は、悪霊、悪魔が、神様の許しの元に行なっている出来事だと思っていました、病気もそうでした。(古代でなくても、現代でも不治の病にかかった人の為に加持祈祷をする人たちがいるのもこういう考えがあるからです)

 今日の福音箇所での癒された人も、「御心ならば、私を清くおできになります」と云っています。という事は、疑う気持ちは一切なくイエスの業を信じきった言い方であります。イエスの言葉を神のことば、自分に奇跡がおきる言葉として、受け入れるというより、受けたいという思いにあふれた状態でした。

 人間は自分の持っている言葉で物事を考えますが、この人は癒しの言葉を切に願っていたのだと思います。ですから「清くなれ」と云われれば、即反応し清くなった訳だと思います。

 先ほどの加持祈祷ではありませんが、訳の分からない呪文を唱えたところで普通の精神状態の人なら、よけいに訳の分からない事になりかねません。(言葉と云うものはある意味自分の考える言葉、持っている言葉以外の言葉を使われたら何の事だか分からない訳でありまして、・・その例として、田舎でのんびり暮らしているおばあちゃんに、「おばあちゃん、ストレスはないの?」と聞いたところ「ストレスって何?」と言う返事が返って来た様にです。

ーー『私は以前リフォームの仕事をしたことがあったのですが、その折、道具や材料を田舎の金物屋で調達しました、その時の事、領収書を下さいと言って、「宛名を何と書きますか?」と言うので仕事をもらった社名のリモテックスでお願いしますと言いました。もう一度言と云うので再度リモテックスと言いました、ちょっと戸惑ったようですが、すんなりと書いてもらいました。リ・モ・テックスという今は無い会社なのですが、改めて領収書を見た所、宛名には、芋(イモ)テク様となっておりました。(よほど、私が芋おじさんにみえたのかわかりませんが、お店のおばあちゃんには「芋」がすぐ頭に浮かんだのだと思います。』ーー

 人間とは弱いものですから、言葉で示す事の出来ない事、目に見えない事柄、具体的にこれだと示すことの出来ない事柄については、より良い幸福を望むあまり、不安を感ずる事がありますが、殊になにか普通でないことが起きたときなど殊更でありして、そういう人に言葉巧みに近づき背後霊とか悪霊に取り付かれているから叙霊するとか言って、呪文をとなえ、お祓いをする人、いわゆる霊感商法なるものも一時期流行っておりました。

 占いや、ジンクスに興味を持つのも必ずしも良くないとは言い切れません、しかし私達キリスト者は、そういうことに心を奪われてはならないと思います。

 苦しみの中にあるときこそ、私達の信仰を深める時であるように感じます。今こうして此処に生かされている恵みに感謝したいと思います。そして特に災害に遭い苦しんでいる人や病に苦しんでいる人、そしてその病そのものよりも自分は不幸だと思い込んでいる人、心の病に苦しんでいる人達が一刻も早く、普通の生活に戻り私たちと共に生きてゆく事ができるよう、祈りたいと思います。

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